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三重ノ海剛司

三重ノ海 剛司(みえのうみ つよし、本名:石山 五郎(いしやま ごろう)、1948年2月4日 - )は大相撲の力士で、第57代横綱。現在は年寄・武蔵川、日本相撲協会理事長。

三重県松阪市出身。松阪市立鎌田中学校卒業。出羽海部屋所属。血液型A型。身長181cm、体重135kg。
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1980年11月場所限りで現役を引退した後は年寄・山科を経て武蔵川(14代)を襲名し、出羽海部屋から分家独立して武蔵川部屋を興し、日本相撲協会の役員待遇、監事、理事を経て、2006年2月より事業部長、2008年9月に第10代理事長に就任。

経歴 [編集]
1963年7月場所:初土俵。
1969年3月場所:十両に昇進。
1969年9月場所:新入幕。
1970年7月場所:小結に昇進。2横綱(大鵬・玉の海)を破り、8勝7敗と勝ち越して初の三賞(殊勲賞)を受賞。
1970年9月場所:関脇に昇進。
1975年11月場所:初優勝。場所後、大関に昇進。
1976年5月場所:大関で2場所連続負け越したため(この場所は途中休場)、大関から関脇へ陥落。
1976年7月場所:関脇の地位で10勝をあげ、翌場所大関に復帰する。1969年7月場所に「2場所連続で負け越した場合、関脇へ降格する。しかし降格直後の場所で、10勝以上の勝ち星を挙げれば、大関に復帰出来る」という制度が出来ていたが、その最初の適用例だった。
1979年7月場所後:横綱に昇進。現在まで、大関陥落経験のある力士が横綱に昇進した唯一の例である。昇進2、3場所目に連続優勝を果たすがその後は怪我・病気などで休場が多く、15日皆勤したのは4場所のみであった。
1980年11月場所:3日目に引退。年寄・山科を襲名(同場所後、武蔵川に名跡変更)。
2007年6月16日:北の富士以来史上8人目となる還暦土俵入りを行った。ちなみに太刀持ちは出島、露払いは雅山と、大関まで進んだ部屋の現役力士が務めた。
2008年9月8日、大相撲ロシア人力士大麻問題の処理を巡って辞任した北の湖敏満の後を受け、日本相撲協会第10代理事長に就任した。
主な成績 [編集]
幕内在位:68場所(横綱在位8場所、ほか大関21場所、関脇12場所、小結3場所)
通算成績:695勝525敗1分56休 勝率.570
幕内成績:543勝413敗1分51休 勝率.568
横綱成績:55勝23敗30休 勝率.705
幕内最高優勝:3回(全勝1回)
三賞:殊勲賞5回、敢闘賞1回、技能賞3回
金星:5個(輪島2、北の湖1、琴櫻1、北の富士1)
各段優勝:三段目1回(1967年9月場所)
連勝記録:24(1979年11月場所8日目~1980年3月場所初日)

エピソード [編集]
小学校の頃はベルトを買う金もなく、母の腰巻のひもで代用していたというほどの貧窮家庭に育った。入門後は二番出世で序二段に13場所もとどまるなど、素質的にも期待されていなかった。肝炎や大関陥落など、様々な試練を乗り越えて横綱を射止めるまでの土俵人生はまさに七転び八起きというにふさわしく、幼少時に培ったハングリー精神の賜物といえよう。
1972年前半には長谷川(現秀ノ山)・貴ノ花・輪島・魁傑(現放駒)らとともに大関候補とされるようになった。また、角界の将来を担うと考えられた若手を「三角大福」にあやかって「貴輪三魁」と呼ぶこともあった。しかし、1972年後半から肝臓病が悪化し、1974年頃は幕内中位で低迷した。回復して1975年に大関の座をつかんだものの、新大関の場所で左足首を捻挫し、それがもとで3場所で転落。翌場所で10勝を挙げて復帰したが、しばらくは二ケタ勝利すら挙げられずに苦しい土俵が続いた。そのため、戦後の横綱の中で大関時代の勝率は最も低い(.594。180勝123敗12休)。
それでも症状が改善した1978年ごろから本来の力を出し始め、1979年3月場所から10勝、13勝と挙げて7月場所で14勝の優勝同点(輪島と優勝決定戦)。ワンチャンスで最高位をつかんだ。
昇進にあたって入門時の師匠である先代武蔵川の市川國一(元前頭出羽ノ花)から「一簣功」(いっきのこう)という言葉を贈られた。「九仞の功一簣に虧(か)く」という故語からの引用で、「苦労の末に晩年に横綱になったが、これで安心せずもう一花咲かせてみせよ」という想いがこめられたものだった。三重ノ海はこの言葉に奮起して1979年11月場所と翌1980年1月場所に連続優勝を果たし、特に1月場所は初の全勝優勝だった。彼の三揃えの化粧廻しにはこの「一簣功」の三文字をあしらったものがあり(「一」は露払い、「簣」は横綱、「功」は太刀持ちが着用。文字の筆を執ったのは市川國一本人)、還暦土俵入りでも使用された。
その大師匠である先代武蔵川は、時津風理事長の急死という緊急事態で相撲協会の理事長に就任したが、弟子の三重ノ海も相撲界の連続不祥事によって辞任した北の湖理事長の後任として緊急事態を処理する形で理事長に就任し、奇しくも二代の武蔵川が相撲協会の緊急事態で理事長として采配を揮うという巡り合わせとなった。
前廻しを引いての速攻が得意。ときには張り差しを見せることもあった。非力で身長・体重も平凡だったが、巧みな前捌きで相手に力を出させずに勝つ相撲を身上とした。「相手はまだこれからと思っているうち、いつのまにかに土俵を割ってしまう」ことから「妖気のただよう」土俵ともいわれた。また同じ出羽海部屋の大先輩で、あの大横綱双葉山を69連勝でストップさせたヒーロー、元横綱の「安藝ノ海二世」と言われた事も有る。
1974年9月場所の二子岳戦で引分を記録した。この一番以後、幕内の取組で引分は出ていない。
横綱琴櫻とはすべて大関昇進以前の対戦だったが分が良く、対戦成績は11勝7敗。琴櫻が横綱に昇進するまでは9勝3敗であった。また、この時期は大関戦の勝利が多く「大関キラー」の異名があった。
横綱輪島との対戦成績は16勝27敗。1977年9月場所までは6勝25敗とお客さん扱いだった。だが、大関角番だった11月場所、狂ったような張り手の連発で脳震盪を起こさせて寄り切り、立ち直りのきっかけとなった。以後の輪島戦は10勝2敗(決定戦を除く)と圧倒している。
横綱北の湖との対戦成績は13勝26敗。大関昇進の頃までは北の湖にとって苦手の一人とされ、対戦成績も互角であったが、1976年11月場所から15連敗と歯が立たなくなった。その間1978年1月場所、北の湖に対し奇策猫騙しを敢行したが失敗に終わった。だが、1979年5月場所には32連勝中の北の湖に立合い変化しての上手出し投げで16場所ぶりの勝利を挙げ、北の湖にとっては連勝ストップの痛い黒星となった。
横綱土俵入りは雲竜型を選択。土俵入りの指導は、当時の部屋の師匠だった出羽海親方(元横綱・佐田の山)が行った。出羽海一門出身の横綱は総て雲竜型であり、かつ雲竜型は横綱として長く大いに活躍出来ると言われているが、三重ノ海の場合は横綱昇進が既に31歳と高齢だった事もあって、横綱在位場所数はわずか8場所(横綱在位場所数最短記録2位タイ)と短命に終わった。 ちなみに三重ノ海昇進から引退まで4横綱(北の湖・輪島・若乃花・三重ノ海)だったが、4人とも雲竜型だった。
引退当時の出羽海一門にはまだ分家を許さない不文律があったが、三重ノ海については独立を許され、一門内で部屋を立ち上げることができた。出羽海部屋への思いは非常に強かったようで、新築された武蔵川部屋は間取りから内装まで出羽海部屋とそっくりであったという。指導者としては横綱武蔵丸(現振分)のほか武双山(現藤島)・出島・雅山の三大関を送り出した。外国出身力士に元学生横綱と、たたき上げの日本人力士でなかった点でいま一つ評価が低いが(他に三役力士として、共に小結の垣添=学生相撲出身・現役=、和歌乃山=「花の六三組」のたたき上げ・現山分=も育成)、一時期は角界最多数の関取を擁し一時代を築いた。また角界には珍しく、新弟子を新聞広告で募集したことがあり、話題をまいた。
突然の理事長就任の際には、相撲界の綱紀粛正を徹底させる旨の発言を行ったが、これには前歴がある。武蔵丸が入門した際には、事前に半年間相撲界でやっていけるのかどうかを見極めるテストを行った。これは武蔵丸の前に入門した外国人力士の武蔵坊が高い素質を見せながら相撲界に馴染めず逃走したことへの反省という意味もあった。
長男の石山俊明は本名を四股名として三段目まで昇進した元力士であり、引退後は俳優として「GTO」や「暴れん坊将軍」に出演したことがある(2008年9月14日放送のTBS「アッコにおまかせ!」での情報)。

改名歴 [編集]
石山 五郎(いしやま ごろう)1963年7月場所-1966年5月場所
三重ノ海 五郎(みえのうみ -)1966年7月場所-1976年7月場所
三重ノ海 剛司(- つよし)1976年9月場所-1980年11月場所

年寄変遷 [編集]
山科 剛史(やましな つよし)1980年11月
武蔵川 晃偉(むさしがわ あきひで)1980年11月-

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2009年03月31日 12:12に投稿されたエントリーのページです。

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